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休息前
目まぐるしい一日が過ぎていますが、ただいま午後4時半を回ったところ。ヤド・ヴァシェムから帰宅したところですが、はーーーー、疲れた・・・っ。朝から所用で旧市街へ行き、その足で午後からヤド・ヴァシェムへ。

2005年にできた新館は、「迫力」、その一言。入った瞬間に「やっぱり出よ」と迷ったくらい。しかし、ここもしばらくは来られないだろうからと、覚悟して回りました。博物館というか記念館の館内は撮影禁止ということで、残念ながら館内の写真は載せられません。外からは撮りましたが、えー・・・、っとですね、どういう場所なのか、なにを思ったのかについては、ただ今とにかくむっちゃ疲れているのと、まだなにを言いたいのかまとまらないのとで、ヤド・ヴァシェムについてはもう少し環境的にも落ち着いてから書くことにします。

今から一眠りして、スーパーにちょいと買い物に行き、それから近所の友人夫妻に会い、テレビやらのいらない家具をあげる友人たちに取りにきてもらい、その足でヒーターを別の友人宅へ返しに行く。そのころにはすでに深夜ごろだろうから、それからニャンズに精神安定剤入りのごはんをちょっとあげ、ゴミを全部捨て、ちょっと掃除し、タクシーに連絡。もういちど最後に荷物の点検をして、夜中の3時に家を出てベン・グリオン空港に向かう。そんな予定です。

これまでブログを通してイスラエルを楽しんでいただいていた方々には申し訳ないのですが、とりあえずわたしのイスラエル通信はこれにて終了です(また再開なんてこともあるかもしれませんが。笑)。この後はどういったカタチでブログを続けるかは検討中です。あっちこっちと何個も分散してブログを書くのは(ログインするのもね)面倒なので、一か所でなんとかならないものかと。ここで引き続き書くか、それとも新しいところで書くか。書く題材にもよりますが。ここで続けたほうがよい、新しいところのほうがよい、ご意見あれば遠慮なくお願いします。

ということで、これから一眠りします。
それじゃ、またあとで。
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by ck-photo | 2008-02-13 23:34 | 何気ない日々
いちばん行きたくないところ・・・カウントダウン 2/31
ただ今、ヨナカの一時半ですが、12時頃まで数人の友達とジャーマン・コロニーでお茶してました。ええ、お茶ですよ(笑)。お酒を飲まなくたってヨナカまでワイワイとオープンしてるのがイスラエルのカフェのよいところ。

さて、夜が明けた明日、エルサレムでいちばん行きたくないところに行ってきます。ミスラダ・ハプニム(内務省のヴィザ関係のオフィス)ではありません(←在エルサレムの方にはわかる頭痛の種。爆)。

行き先は・・・帰ってから。わははっ。なんていじわるはやめといて。ヤド・ヴァシェム、ホロコースト博物館に行ってきます。ここには何度か足を運んでいますが、ぶっちゃけた話、ここは何度も足を運ぶ場所ではない。一生に一度行けばそれで十分、世界中のホロコーストの記録が収集されている博物館ですが、いやー、かなり重い。

それなのに行く理由にはいくつかありますが、ひとつは去年だったか一昨年だったかに新しくなってから行っていないこと、と、これからのプロジェクトのためにも行っておいたほうがよいだろうということ。

見学のあとで、気力があったらまた博物館の様子などを載せますね(気分的にムズカシイかもしれないですが)。

The Holocaust Martyrs' and Heroes' Remembrance Authority


ちなみにくー&たんですが、ええ、引っ越し屋さんが来た時は大さわぎでしたヨ。とくにくーしが。いやー、くまおとよぶのがふさわしい暴れ方でした(笑)。くー&たん、そろってえさを狙うサメのごとく、うーろうーろ、ぐーるぐーる、そしてあっちこっち走り回りーの・・・で、ほんっと大変でした。興奮し過ぎのくーしを落ち着かせようとして、手のひらを引っ掻かれてあえなく負傷(笑)。イテテっ。
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by ck-photo | 2008-02-12 08:42 | エルサレム・エルサレム
ゲットーってなに?パレスチナはゲットーか?
先日、バール・イラン大学で比較宗教学の博士号を取っている韓国人留学生に車でエルサレムまで送ってもらったときのこと。

e0009669_6363998.jpg高速バスのルートとはちがう国道443を通って、テルアヴィヴ方向からエルサレムへ向かった。この路の近辺では、旧約のヨシュアの話やマカビーの戦いなどのユダヤ史がおもしろい。また途中でパレスチナ自治区のウェストバンク(ヨルダン川西岸地区)を一瞬横切るので、アラブの町や村のモスクの塔や沙漠の丘など、平和なときには「ああ、中東だなあ」と、旅の途中ような風景が続いている。(国道443の写真は他から借用)

ウェストバンクを横切りながら、はじめはそのグラフィックの描かれた壁は高速にありがちな防音壁かと思ったが、どうやらそうではないらしい。壁の後ろには有刺鉄線。在イスラエル8年になるその韓国人留学生が言った。

「こうしてパレスチナ人を有刺鉄線の向こうに閉じ込め、ゲットー*(収容所)にするなんて、ひどい話だよ。ホロコーストでナチがユダヤ人に行ったのと同じことをイスラエルはパレスチナにしているんだ。自分たちがそうされたからって」

パレスチナとイスラエルを分離する壁ができ始めてから、メディアやピース団体のデモなどで使われるアホなコメント代表だ。決して彼はアホではないが。

どんなお偉いさんが言おうとも、このゲットー論はめちゃくちゃである。まず、ゲットーを持ち出すのであれば、第二次大戦時のナチが作ったゲットーが一体何たるものだったかを知っていなければ話にならない。当時のナチによるゲットーは、ユダヤ人、ジプシー、外国人、そしてキリスト教の聖職者、同性愛者、など彼らの目指す社会に不適切だと見なされた人々を排除し「殺す」ために作られたものである。

e0009669_8425392.jpg仮にイスラエル側がパレスチナとの境界に有刺鉄線を置いたとすれば、それはこじれた状況の中でイスラエル側の身の安全(テロリストの侵入防止)、つまり自己防衛であって、ナチの作った「排除した者を隔離し殺すため」のゲットーとはまったく異なる。いわんやその反対の理由である。この443での有刺鉄線と壁の理由は、2001年などインティファーダ当時において、パレスチナのスナイパー(狙撃手=この場合はテロリスト)に一般ユダヤ人の通行車が狙われ死傷者が数多く出たことにある。最近でもちょうど一年前に、イスラエル国籍アラブ人が同じように彼らに狙い撃ちされ死亡している。

こういう状況で、この有刺鉄線の向こう側がパレスチナ人たちを抹殺するための居住区ということになるのだろうか。エルサレム周辺にも壁はあるが、その向こう側がそういった『ゲットー』だとは思わない。

そして、そもそもパレスチナとイスラエル間には他の国同様に国境を引くべきなのだから、そこにあるものが普通の鉄線でも少々物々しいが有刺鉄線でもいいのではないか。

と、仕事で疲れている帰路、わざわざさらに疲れそうな話には首を突っ込みたくなかったので、「ヘー」とか「あ、そう?」とか適当に返事をして、夕暮れのエルサレムに着いた。


*ゲットーについて(葉っぱの坑夫にも載せてありますが、少々書き直ししたものです)

■ゲットーとは

1:ゲットーの語源は13世紀のベニスが発祥のイタリア語で、石切り場の大きな穴という意味。のちにローマ教会がキリスト教徒とユダヤ人を区別するため、ユダヤ人を集めて住まわした地区がゲットーと呼ばれ、中世ヨーロッパにおけるユダヤ人居住地という意味でゲットーが用いられる。都市によっては壁に囲まれたゲットーもあった。

2:第二次世界大戦時においてドイツ軍によって強制的に集められたユダヤ人が、どの収容所に輸送されるかが決まるまでの借りの居住区のことをゲットーと呼んだ。有名なものでは1943年にドイツ軍によって破壊されたポーランドのワルシャワゲットーがある。ワルシャワゲットーは中世にユダヤ人の居住地だったが、その後ユダヤ人はゲットー以外に住むことを許された。そして第二次世界大戦時のドイツ軍によって再びユダヤ人を集めた居住地区となった。

3:日本語でのおもに使われる第二次世界大戦時のドイツ軍によるユダヤ人強制(または絶滅)収容所という意味のゲットー。英語ではおもにConsentration Camp(コンセントレーション キャンプ)という。


■Consentration Campとは

強制収容所と絶滅(または撲滅)収容所の二つに分かれる。

1:強制収容所は囚人を収容し、死に至るまで労働させることを目的とした。ドイツで最初に設置されたのはミュンヘン近郊のダッハウ強制収容所で、ダッハウ強制収容所は終戦近くになりガス室を設けられたが、一度として使われる事なく終戦を迎えた。

強制収容所での収容者はおもに政治犯、犯罪者、キリスト教神父、などヒトラーのイデオロギーとは異なった、社会に影響を与えそうな人達が収容されていた。ここに送られたユダヤ人たちは収容所で必要とされていた職業を持つ者、たとえば医者、針子、鍛冶、など何らかの手に職があった人達だったが、ドイツ軍における最終目的は彼らを抹殺することだった。

2:絶滅収容所ははじめから抹殺を目的とした機能の収容所で、ほとんどの絶滅収容所はヨーロッパ内で最も反ユダヤ主義の強かったポーランド国内に設置された。その中でも最も大規模で有名なのはアウシュヴィッツ絶滅収容所である。絶滅収容所での収容者は、主にドイツ人の純血を乱すと見なされた人種であるジプシー、精神病者、同性愛者、外国人、ユダヤ人、そして労働不可者(病人、子供、老人)など。
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by ck-photo | 2007-06-18 06:47 | 戦争と平和
誰のためのホロコースト追悼日?
さて、ユダヤ暦では日没後から新しい一日が始まります。今夜からの一日はヨム・ハ・ショアーというホロコースト追悼日。夜の7時半ごろにちょっとした所要で、なんていうと大げさですが、本当はお菓子を買いに行っただけのこと、でダウンタウンに行きましたらば、服屋さんやらは追悼日のためにすべてすでに店じまい。開いているのはカフェだけ。

帰宅後、テレビではエルサレムのホロコースト博物館、ヤド・ヴァシェムにて行われた追悼式の中継が流れていました。いやー、イスラエルでこういう式典を見るといつも思うのですが、兵隊たちが並び、なんだかもうダサダサの式典です。ほんと、ここは実はいまでも社会主義国だったのかというか、1940年代建国当時のまま時間が止まっているんじゃないかという気がします。

式典ではイスラエルの首相などが参列し、カディシュと呼ばれる喪の祈りのようなものが読まれ、イスラエル国歌ハティクヴァ(希望)が歌われます。この追悼番組の後にはイスラエルに住むホロコースト生存者の番組が流れていました。

イスラエルに住むホロコースト生存者たちですが、当然、その多くが戦後にヨーロッパから移住してきた現在では年金暮らしのお年寄りです。ドイツなどからホロコースト謝罪金などがイスラエルに対して支払われ、そのお金はそういった彼らの生活補助、または謝罪金としてあてられるべくものです。そして、戦時中にユダヤ人個人が当時のドイツなどの地で所有していたもの、たとえば銀行口座のお金などは、その子孫や家族、または本人に返還されるべきものであるはずなのですが、それも表向きのことであって、実際はイスラエル政府が管理しているといったアホらしさ。ホロコースト基金のようなところですらも、その会長などはそこから得た資金で裕福な暮らしをし、本来渡らなければならない人にそのお金が渡っていない。

そういった裏事情により、国がその生活を保障してあげなければならないホロコースト生存者のお年寄りの多くが、この国では貧困レベルに追いやられています。月々の年金は1400シェケル(4万円ほど?)あたりで、そのうち500シェケルほどもを医療費に当てなくてはいけないお年よりもいるのだそうです。一ヶ月4000シェケルほどは必要なこの物価の高いイスラエルで、たったの1400シェケルなどというはした金でどうして暮らしていけるのでしょうか。

イスラエルという、多くのユダヤの人たちにとっての祖国、家族、という国で、それが国民に、ホロコースト生存者に対して政府のすることなのかと。他の政府がしているのであればまた話は別ですが、国民に、つまり自分の家族の中に生存者または犠牲者がいる政府が身内に対してしてはならないことではないかと。彼らを守るのはこの国でありこの政府でしかないわけですから。

いったいこんな現状でなにが、そして誰のためのホロコースト追悼式で追悼日なのか。明日の午前中には黙祷をささげるサイレンが国中に響きます。たった今、テレビではホロコーストの実話映画、ソビブルの収容所から600人の囚人たちが大脱走する「Escape from Sobibor」(日本語では「脱走戦線 ソビボーからの脱出」)が流れています。
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by ck-photo | 2007-04-16 06:40 | 戦争と平和
名の記憶と木々の新年
すっかり書くのを忘れていましたが、1945年1月27日はアウシュヴィッツが開放された日で、近年ではそれを記念して毎年1月27日は国連が定めた世界ホロコースト犠牲者の追悼日だそうです。イスラエルのニュースではベルリンで行われた集会のようなものがチラリと放送されたくらいで、特に何もなかったような。イスラエルだとホロコースト記念日は5月ごろにあるので、この時季ではあまりピンとこないですね。今ではあちこちでホロコーストはなかったとかいろいろな説が出ていますが、歴史とは人が語ってゆくものだから時間や都合などによって事実からそれてゆく不思議なものですね。

ちなみにエルサレムには世界一大きなホロコースト記念館ヤド・ヴァシェム(名の記憶)があります。もう少し精神的に若かりし頃は何度か足を運びましたが、もう興味本位またはそれ以外の理由でも、行こうと思わない場所となってしまいました。特にホロコーストで亡くなった子供たちの博物館には行きたくない。薄暗い部屋に灯された何本ものろうそくが、張り巡らされた鏡に映って無数の数となって瞬いている。そのひとつひとつが亡くなった子供のいのちを現し、その灯火の中に子供たちの大きな白黒写真などが展示されている。そして亡くなった150万という数え切れない子供たちの名がエンドレスに呼ばれ続ける・・・。人としていたたまれなくなるというか、あそこへ行って何も感じない人はおそらくいないでしょう。また、敷地内にはホロコーストでユダヤの人々を救った人たちの名で木々が植樹されているのですが、日本人では杉原千畝氏の木が一本植樹されています。他にもワルシャワゲットー・スクエアやビジュアルセンター、などなどいろいろな建物があるので、ヤド・ヴァシェムに行ったことのない方は一度行かれるといいかもしれませんが、かなり精神的に疲れる場所ではないかと・・・。

そして話は変わりますが、日本では節分だった(すっかり忘れていた・・・)2月3日ですが、ユダヤの暦ではシュバット月の15日、木々の新年トゥ・ビ・シュバットでした。この日は今年初めてのディツ(ナツメヤシの実)やいちじくなどを食べ、木々の新年を祝います。ワインも白からロゼ、そして赤と一杯ずつグラデーションをつけたり、春の到来かな。

はじめてイスラエルに来た頃には、このいわゆる春を迎えるお祭りがどうしてこの真冬の時期にあるのかわからなかったのですが、よくまわりの自然を見てみる確かにオリーブやアーモンド、そしてポピーが咲きはじめ、野には新しい草が芽を出し小さな花々も咲き始めます。死海へ行く砂漠の山々にも、冬季にしか降らない雨のおかげでうっすらと生えた草で、この頃だけは緑色に染まります。なるほど、確かに生命が溢れて木々の新年にふさわしいなあと思える時期だったのですね。

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そして食日記。ベジタリアンを心がけるようになってから2、3週間でしょうか。時々浮気してお魚は食べますが、気持ちのよい食生活になってきました。かなり大味のかぼちゃ、squashというやつでしょうか。それとブロッコリーのオリーブオイル&ハーブのオーブン焼き。食べる前に練りゴマをかけてアクセントに。本当はブロッコリーはスチームしたほういいのでしょうが、でもおいしかったからOK。squashはべたべたするのであまり好みではないけれど、日本のあのほこほこしたかぼちゃが食べたくても、ないからしょうがない。


*コメントのお返事が遅れてますが、ちゃんと読んでますので~。
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by ck-photo | 2007-02-05 03:28 | 戦争と平和
記憶の日
今日の日没。

たった今、イスラエルの国中に一分間のサイレンが鳴り響きました。
エルサレムの嘆きの壁の前では、式典が行われています。


ヨム・ハジカロン

記憶の日


イスラエルの国のため、愛する家族のために戦い、
命を落とした兵士たちを忘れないための日。

そして明日の午前11時、もう一度長いサイレンが鳴り響きます。
車を運転中のドライバーも、シャワーの途中の人も、
すべての人々が起立して黙祷を捧げます。

去年一年では138人の兵士が亡くなったそうです。

明日の日没からは建国(または独立)記念日となり、お祝いムードへと。
街角や家々の窓からはイスラエルの国旗。
通り過ぎる車にも小さな旗がパタパタパタ。



ちなみに先日は、もうひとつの記憶の日でした。
ヨム・ハ・ショアーと呼ばれるホロコースト記念日。

イスラエルではこの日も国中にサイレンが鳴り響き、黙祷を捧げます。
そして、世界中のユダヤのコミュニティーではユダヤの人々が集まり、
ホロコーストで亡くなった方たちを忘れないように式典が行われました。
式典では犠牲者の名が空に響き、悲しい響きのカディシュと呼ばれる祈りが
ラビによって捧げられました。

今回、私が滞在していた旅先のクロアチアでは、ホロコーストを忘れないようにと、
首都ザグレブからヤセノヴァッツと呼ばれるクロアチア最大の収容所跡に向かって
100キロほどを単独で走りぬかれたクロアチアの方がいらっしゃいました。

日本からは遠い国で起きた遠い昔のはなし。
それでも、ホロコーストは今でも忘れられず、
記憶されています。



忘れ去られたイディッシュ語の歌 

「トレブリンカ」  / 訳 by CK-Photo

            
小さな町の朝早く

服も身に着けないままに
ベッドから連れ去られたユダヤの人たち

どのようにしてその車輪がトレブリンカへ向かったのか
誰にもわからなかった

海の向こうにいる兄弟たちよ
君たちにはここで何が起こっているのか
わかるはずもない

でもこの戦争もいつかはひとつの終わりを迎えるだろう
その時世界は驚愕する

その時君は
トレブリンカに
100万という無数の墓を知るだろう




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by ck-photo | 2006-05-02 02:09 | ユダヤの暦
日曜日の哲学カフェ 「夜と霧」第3章 死の蔭の谷にて
さて、年も明けてちょっと日もたちましたので、お約束通りに「日曜日の哲学カフェ 夜と霧」の再開です。この『夜と霧』はヴィクター・フランクルの代表的な著ですが、同じタイトルでフランス人の映画監督アラン・レネによって1955年に36分ほどのドキュメンタリー映画にもなっているんですね。

昨年の最後の章では収容所へのはじめの生活での典型的な反応の初期について読みましたが、今日はそこからさらに次の段階へ進みます。

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「この瞬間、眺めているわれわれは、嫌悪、戦慄、同情、昂奮、これらすべてをもはや感じることができないのである。苦悩する者、病む者、死につつある者、死者―これらすべては数週の収容所生活の後には当たり前の眺めになってしまって、もはや人の心を動かすことができなくなるのである。」

「夜と霧」第3章 死の蔭の谷にて。


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フランクルの言う無感情、無感覚ですが、実はこれに似たようなことを体験したことがある。もちろん、収容所での体験とはまったくレベルが違うとは思いますが。

エルサレムに住みはじめ、2001年の秋ごろからあちこちでパレスチナの自爆攻撃によってバスやカフェ、ホテルなどが突然爆発し、多くの方が亡くなってゆくのを身近に感じて生きています。死と生が本当に真横に、紙一重のところにあるという気がいつもしています。そして、ブログでも書きましたが、不幸なことにも去年の9月のエジプトの自爆攻撃では知り合いを亡くしました。

そういった生活で、私の心の中で、人がこういった形の爆発によって亡くなっていくと言うことに非常に無関心で無感情に陥ったことがあります。ニュースで「今日の午後どこどこどこで爆発して30人亡くなった」と聞いてその場面を見ても、あっさりと「ふーん」なんですよ。

もちろん2001年の秋からそういうことが始まって、最初のころは街を歩くたびにビクビクして、悲しくて。エルサレムの街自体深く沈みこんで喪に服していましたし、そういった悲しく恐ろしいニュースを聞くたびに胸が痛くて、次は自分とはどうして言い切れないのだろうかとかね。そういう毎日だった。

でもね、もうそれから何年もたちますから、どこそこで爆発した、人がン十人死んだ、はすっかり日常の一部になってしまった。これはぶっちゃけた話、異常な日常なわけですが。

こう言うと情がないのかとか非常識だとか、外部の人はそう思うかもしれない。でも実際にそういう爆発音の響く日常を過ごせばそれに否応でも慣れてくるし、ある意味、それに対して感情的には死んでしまったようなところがある。そしてまた変に楽観的な自分もいたりして。きっと心理学的理由はいろいろとあるのでしょう。ただフランクルの言うように「死につつある者、死者―これらすべては数週の収容所生活の後には当たり前の眺めになってしまって、もはや人の心を動かすことができなくなるのである。」と、いうことなんだろうなぁと。

しかしある時、どこかでの爆発をニュースを見ていて、なんとも思わずにいる自分に気がついて、あれ、やばいなぁと。この人が亡くなって行く事実をなんとも思わない日常の麻痺した感覚がとても恐ろしいと。

それでも、知人が9月に亡くなったときはさすがに何度も泣きましたし、今でものどの奥が熱くなります。でも、あの時、そして今でも泣くことができるのにちょっと驚いたくらいです。といっても、普段の日常生活に支障があるわけでも心理的に重大な障害や問題があるわけでもないんですけどね。

ちょっと落ちがなくなっちゃいましたが(・・・落ちなんてなくてもいいんですけど、一応関西人なので、どうも落ちのない話はすっきりしませんワ)。
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by ck-photo | 2005-01-09 05:41 | 日曜の哲学カフェ
プラハの旧ユダヤ人墓地
e0009669_18552533.jpgプラハはここ数年の間、「行ってみたい街」のリストのトップなのですが、なかなかその機会がなくいまだに行けずじまい。

今回はそのプラハの旧ユダヤ人墓地についてです。この旧ユダヤ墓地は、プラハでも人気の観光地の一つだそうですが、ヨーロッパに存在するユダヤ人墓地では最古のものなのだそうです。1439年から1787年までの348年の間に10万人のユダヤ人が埋葬され、埋められている層がなんと12層、つまりある一定の時間が過ぎるとその上にまた新しい住人さんをお迎えするということですね。そしてその狭い墓地にある墓石の数は1万2千個。まさにむぎゅむぎゅ、オシクラ饅頭状態。

この旧ユダヤ墓地にはかつての有名なユダヤの方が埋葬されているとのことですが、プラハの有名なユダヤ人といえば、このお方。朝起きたらムシになったよ、フランツ・カフカ。でも残念なことにカフカはこの墓地が閉められた遥かのちの1924年に亡くなっているので、ここには眠っていないのだそうです。なので、この墓地で最も有名な墓は、カフカならず、ユダヤ教の神秘主義のカバラを学んでいたラビ・ユダ・ロウ(Judah Loew 1525 - 1609)。彼はユダヤ版フランケン・シュタインを作り出したとされ、伝説的人物とされました。そしてもう一人は1439年に亡くなったラビ・アヴィグドール・カラ(Avigdor Kara)。彼は1389年のプラグでのポグロム(集団で行うユダヤ人に対する暴行・破壊や虐殺)を生き延びた数人のうちの一人でした。このポグロムは、プラハのカトリックの司祭たちが「ユダヤ人はキリスト教の儀式に使う聖体を盗み、黒魔術をかけている」とうわさを流し、それを信じたプラハのキリスト教徒によって当時プラハに住んでいた3000人のユダヤ人のほとんどが虐殺されました。こういう根拠のないデマを流し、町人を駆り立てたポグロムはヨーロッパの各地で行われていました。

こんな疑問・・・

「なぜこのプラハの旧ユダヤ墓地がヨーロッパ最古のユダヤ墓地となったのか?」

単刀直入、第二次大戦のホロコースト時にヒトラーによって破壊されなかったから。ではなぜ破壊されずに済んだのか。ヒトラーはユダヤ人撲滅後にプラハに、「こんな特殊な人種がかつてこの地上に存在しとりましたん。でもね、今はもうこの人種は絶滅してまっさかいに、博物館に収めましてん。見ておくれやす。」と、ユダヤ博物館を作る計画を立てており、そこでこの旧ユダヤ墓地を残すことにしたのだそうです。

e0009669_18572252.jpgこの写真は旧市役所のヘブライ語文字の時計。一階は昔のシナゴーグで現在も使用され、上の階もまた新しくできたシナゴーグだそうです。時計の文字盤をよく見てみると、なるほど、ヘブライ文字ですね。

プラハの旧ユダヤ人街を見てみると、亡くなった方の墓地だけではなく、数件のコーシャーレストラン(写真右)、9軒のシナゴーグなど、いまだにユダヤの人々が住み生き続けているのが伺えるようです。e0009669_1902212.jpg
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by ck-photo | 2004-12-20 18:53 | ユダヤ雑学
一切れのパン
これからまた4年間もあのぶっしゅ・じょ~じ君のお顔と茶番劇ショーを見るのかと思うと、がく~っと来ますが、それに拍車をかけてくれたのがこのニュース。先日の香田某君。彼の遺品は「紙のナプキンと石」だという。24年間生きた人間の最後がこれ?なんと儚くなんとあっけないものよ・・・。人のイノチなぞ、こんなものなのか。

そして、この「石」、何かと思いきや、はぁー。なんと「死海の石」だった。彼もまた、死海のほとりに立っていたのですね。きっと初めての死海で楽しかったのでしょうか。私のうちにもあります、死海の石。対岸のヨルダンを眺めながら、そこで拾った石でしょうか。妙にリアルにその姿が想像できてしまう訳です。いくら彼の責任とはいえ、なんだかとってもやり切れませんよ、私。個人的にはいろんな意味で、この事件はきっと忘れないだろうと思います。


こんな話を思い出しました。とてもとても長いお話ですので、気が向いた方だけ、お付き合いくださいませ。



「一切れのパン」 フランチスク・ムンティアヌ著



第二次世界大戦中に僕の祖国ルーマニアと隣国のハンガリーはドイツの同盟国で、僕はハンガリーの首都のブダベストで水運会社に勤め、ドナウ川を行き来する艀で働いていた。二週間ぶりにブタペストに帰港した僕はを待っていたのは妻ではなく、突然船中に乗り込んで来た水上警察で、有無を言わせずに拘引されたのだが、実際、僕にはその理由が全くわからなかったのだった。

連れられた警察の一室で、警官と若い中尉から国籍について簡単な尋問と理不尽な侮辱を受け、同じような仲間のいる地下室の暗闇に投げ込まれた。彼らはそこでこんなことを教えてくれた。一週間前にルーマニアが同盟国のドイツから寝返ってソ連側と手を結んだために敵国人として逮捕されたのだと。

そして彼らは2日間何も食べ物を与えられていなかったと聞いて、僕も船の仕事が忙しくて朝食も食べていなかったのを思い出して、急に飢えが迫ってくるのを感じたのだ。その翌日の夕方に僕らは、一度も食事を与えられず行き先も知らされないままに窒息しそうに息苦しい貨車に押し込まれてその駅を出発した。

僕たちの押し込まれた車両は古く床板は腐っていて、一面に散らばった木切れと鋸屑とから、僕は直ぐに木材運搬に使われていた車両だとわかって、他の連中がその事に気がつく前に鋸屑をベッド代わりにするために自分のまわりにかき集めた。横には頭をそった背の低い老人が目を半開きにしたままうとうとしていた。そして僕の方に身を屈めてこう言った。

「君はどこから来たのですか?」

言葉のアクセントがユダヤ人特有のものに違いないと思ったので、彼に聞いてみた。

「あなたはユダヤ人ですか?」

彼はびくっと身をちじめて、

「しっ。人に聞かれないように。」

と、指を口に当ててから、誰にも聞こえないようにヒソヒソと僕に打ち明けたのだった。彼はシゲト市(ルーマニア北部の都市で当時はハンガリー領)の郊外に住んでいるラビだったのだ。

翌日の貨車の中での話と言えば食べ物の事ばかりで、誰かがティミシュ-トロンタル地方(ルーマニア西部)ではサルマレ(ロールキャベツに似たバルカン地方の料理)をどんな風に作るか説明しはじめると、もう一人はトランシルバニア地方では彼の女房の料理に勝る者は一人もいないと興奮気味に話し続けた。

それから、お役所式の面倒な手続きのためにハンガリー国籍を取るのが間に合わずに逮捕されたハンガリー人の職人は、口汚なく罵りながら床板をはがしはじめた。そこで、やはり同じくハンガリー人で気性の激しい男が数人、彼を手伝い、数時間後には車体の車軸の真上の床板を外すのに成功して、僕たちは夜が来るのをひたすら首を長くして待ったのだった。

人々は脱走については、一方は脱走に賛成し他方は反対して、ラビは何人かが脱走した場合には脱走する勇気のない人々に後で災いが及ぶのではないかと件念していたようだった。そして夜中の二時過ぎに、列車は空襲のために荒野の真ん中で停車を余儀なくされた。そこで迷わずそのハンガリー職人は開いた床の口にするりと体を入れた。

「誰が俺と一緒に来るのだ?」

結局彼に従ったのはたったの三人だけだった。それから四人目が貨車の下に降りてこう言った。

「君も来ますか?」

ラビが心配そうに僕に聞いたのだ。

「・・・行きます。あなたと一緒に行きましょう。連れて行ってくれますか?」

「もし来たいのならば一緒にいらっしゃい。」

それから爆撃は一時間足らず続き、車両の下に降りた僕たち6人は列車が出発するのを線路の間に寝そべって待っていたが、最後の車両のデッキに多分歩哨が立っていて、僕たちに気付き警報を発するかもしれないと、そのことが気がかりだったのだった。年老いたラビは不安そうに蒼い顔をしていたので、彼の近くによって、彼に貨車内に戻るように勧めた。

「ラビはユダヤ人です。もし今度捕まればそれこそひどい目にあうでしょう。仮に今ここで逃げ切ってもその後はどうするのですか?あなたにとっては今のようにルーマニア人として捕虜になってる方がよいのではないでしょうか。」

ラビはしばらく考え込んで、やがて僕の言うことにうなずいて、別れの握手をすると貨車に戻って行った。その時は彼に良い忠告を与えたと心から信じて疑わなかったのだ。

「そうだ、君....。」

「なんでしょう、ラビ。」

僕はすこし心配になって聞き返した。

「君の忠告にお礼をしたいと思ってね。」

ラビは小さなハンカチの包みを差し出した。

「この中には一切れのパンが入っている。きっと何かの役に立つでしょう。」

僕は感謝しながら包みを受け取ってもラビはまだ車両の開いた口から去ろうとしない。

「まだ何か....?」

「君に一つだけ忠告しておこう。そのパンは直ぐ食べずにできる限り長く持っていなさい。パンを一切れ持っていると思うだけでずっと我慢強くなれるでしょう。まだこの先々、君はどこで食べ物にありつけるか分らないのだよ。だからハンカチに包んだまま持っていなさい。その方が食べようという誘惑に駆られなくてすむ。私も今まで、そうやって持って来たのです。」

すると汽車は動き出してしまい、僕は歩哨に発見されるのではないかという恐怖に駆られて、地面にぴったり顔を伏せ、ラビに最後のさよならも言うこともできなかった。

しかし幸運にも、何事も起こらないまま汽車は僕から遠ざかって行ったのだった。それでもまだしばらくは、車輪の響きが聞こえなくなってしまうまでは、身を起こさなかった。どこか近くで爆撃があって、薔薇色の炎が空に立ち上っていた。

「さて、どの方へ行こうか。」

と、誰かが尋ねた。職人が言った。

「みな別々の方向へだ。一緒に出掛けるのはまずいぞ。そんなことすりゃ、かえって早く見つかるだけだろう。」

職人ともう一人の男は線路に沿って歩き始めた。後の二人は左手に広がった林に向かって消えて行った。僕はしばらく決心がつかないまま、枕木の上に腰を下ろしていた。もしラビが一緒ならば少なくとも一人きりにならなくてすんだのにと、もう今となってはラビに貨車に留まるように勧めたことが後悔された。

遠くの方からは、立ち去った仲間たちの足音がまだ聞こえていた。そして不気味な沈黙が訪れ、僕は恐怖に襲われた。躊躇い気味の足取りで、嫌々ながら爆撃された町の方へ向かって歩き出した。ふと、後戻りして、林の方へ向かった仲間たちの後を追っ掛けようとも思ったが、林の方角は暗闇に包まれ、もう彼らを見付けることは不可能だった。

僕は激しい飢えを感じた。喉は渇いて頭はズキズキ痛んだ。目を閉じると瞼の裏に色とりどりの小さな玉が躍り狂い、それはシャボン玉のように膨らんだり縮んだりした。僕はラビからもらったパンを思い出し、ポケットの中の包みに触ってみた。

パンはカサカサに固くなっていた。老人はきっと随分と前からこの一切れのパンを持っていたのだろう。よし、これを食べよう、と思った時、ラビの忠告が僕の記憶に蘇った。

「いや、そうだ、彼の言う通りだ。」

貨車の中で飢えに悲鳴を上げていなかった唯一の人間は彼だけだった。きっとこのパンを持っていたからに違いないだろう。

「僕は彼ほどの意志もない弱虫なのか。」

ハンカチの包みをポケットにしまい込んで、再び重い足取りで歩き始めた。そして自分の飢えを癒すために、最初に見つけた家に行こうと決心した。

明け方になってやっと爆撃を受けた町の近くに着いて、町の外れの家まであと200メートルぐらいの所で完全武装した中隊ぐらいの兵士たちが、こちらに近付いて来るのを目にしたのだ。

僕はとっさに草むらの後ろにさっと身を隠した。兵士たちは草むらの直ぐそばまでやって来てから向きを変えると、国道から原っぱの方へ行き、僕の隠れている場から程遠くない所で指揮官が何か号令をかけ、兵士たちは演習の準備をしはじめたのだ。

それからの5時間、僕は草むらの後ろでただただ震えていたのだ。姿を見付けられはしないかと思う度に身を伏せて這いつくばった。その上、飢えに苛まれていた。ある時には思い切って兵士たちに食べ物を乞おうとさえ考えたが、なんとかそれを断念した。

やっと12時近くになって、兵士たちは再び隊列を作って町の方へ帰って行き、彼らが遠ざかるのを待って同じ方向へ僕も歩き出した。ところが、市の入り口近くで帽子に羽根をつけた二人の憲兵が銃を担いで行きつ戻りつしているのを見て、道端の溝の中に身を伏せ、彼らがいなくなるまで待つつもりだった。

しかし憲兵たちはそこから去る様子は全くなかった。約200メートルの間を行ったり来たりして、市に入る者、市から出てくる者、全員の身分証明書を調べていた。僕は水夫の証明書と会社の給料支給簿しか持っていなかったのだ。そして数時間後には僕が願っていたように憲兵が去るどころか、なんとその数は更に増えはじめたではないか。町に入り込む事ができない事はもう明らかだったが、かといってここから立ち去る事もできなかった。

発見されないで姿を消すには、すっかり日が暮れるまで待たなければならず、職人と一緒に行かなかったことをとても後悔した。彼は今頃どこかで真っ白いシーツにくるまって、きっと満腹のあまり身動きもできないでいるのだろう。

線路の方へ再び戻る道は果てしなく長いように思われた。真夜中近くになって、もう死んだように疲れ果てて、一本の木の下に座り込んだ。今度こそ、ラビからもらったパンを食べてしまおうと決心した。

しかし数分間考えて、僕はそれを翌日まで延ばす事にした。夜は眠るのだから空腹は感じないですむだろう。それから僕は横になって死んだように眠った。

僕は再び船の上にいて、倉庫は素晴らしい食べ物で一杯になっている夢を見た。その後でどこかの大きなレストランのシェフになって、あらゆる料理の味見をしたんだ。

真向から日の光を顔に受けて目を覚ました。腹の中は空っぽで喉はからからに渇いていた。それでも僕はラビの包みを開けずに、立ち上がるだけの意志の強さをまだ持っていた。線路に辿り着くまではこれを食べまいと決心した。僕はポケットに手を突っ込んで、パン切れを指でさすりながら、ゆっくり歩いて行った。

前の日に出発した地点にまたたどり着いた時にはもう正午を過ぎていたのだろう。しばらくの間、僕は枕木を一つ一つ踏み付けながら早足に歩いたが、疲れてしまったので、今度は焼け付いたレールの上を両手で調子を取りながら歩いて行った。このまま歩きながら食べようか、それともどこか木陰で休もうかと迷っていた時、鉄道会社の制服を着た男がひょっこり僕の視界に現れた。本能的に隠れようとしたが、飢えはあの男を避けるなと僕に囁いた。その男は、僕から50メートルほど離れた所まで来ると、僕に呼びかけた。

「脱走者かい?」

僕は黙ってうなずいた。

「なら早くここから逃げたほうがいいぞ。昨夜ここでお前の仲間らしいのが二人、捕まって銃殺されたぞ。一人は赤い縞のワイシャツを着てたね。」

あの職人だ。
僕の足は震えはじめた。

「・・・わかりました。」

と、やっと声にならない声を出した。

「でも、何か食べ物をくれませんか。」

「何にも持っていないよ。」

「ここであなたを待っているから、番小屋から何か持ってきてもらえませんか?!もういつから食べていないかわらないんです!」

「それは無理だね。番小屋には兵隊が二人、泊り込みで見張りをしているからな。とにかく早く逃げろ!」

僕はもうなるようになれと思った。

「それじゃせめて、ここはどこなのか教えてください。」

「エステルゴム(ハンガリー北部、チェコとの国境に近い都市)の近くだ。しかし、町は避けた方がいい。ドイツ兵で一杯だからな。退却しているんだよ。」

僕は林が広がっている左手の方へ向いながら、悔しさに涙がどんどん溢れてきた。二十歳になったばかりなのに、まるでドブネズミのように飢え死にしなければならないのだろうか。太陽は酷く照りつけた。まるで、僕に腹を立てているかのようだった。僕は汗だくになった。そして、体から次第に力が抜けて行くのを感じて座り込んで、もう二度と立ち上がるまいと思ったが、自分自身に皮肉に問い掛けたてみた。

「どうせ死ぬなら、どうして木陰で死なないんだよ?!」

林に着くと、僕はラビからもらったパンの包みをポケットから取り出した。ハンカチ包みを目にした途端、胃は引きつり熱病患者のように喘いだ。もしこのパンを持っていなかったら、と僕は考えた。到底ここまでも辿り着けなかっただろう。飢えに突き動かされて、兵士たちに食べ物を乞いに行ったかも知れないし、そしてあの職人のように銃殺されたかも知れない。そうならなかったと誰が言えよう。

「いや、このパンを今食べてはならない。今はこのパン切れだけが、まだ僕に力を与えてくれる唯一の物だ。立ち上がって歩き出さなければならない。ここで時間を無駄にしていては何の意味もない。」

僕はそうして再び包みをしまい込んだ。

歩きながらもそこに確かにあるかどうかポケットの上から押えてみた。時々、僕には全てが夢にすぎず、間もなく艀の上でいつものように目を覚ますのではなかろうかとさえ思われた。

数時間歩き続けた後、森の外れに農家を一軒見つけた。その数分の後には、この苦難の道も終るものと確信して、僕は農家に近づいた。そしてまさに呼び掛けようとした時、木陰に軍用トラックが数台停まっているのに気がついたのだった。僕は歯を食いしばって、ポケットのパン切れを押えながらすぐに農場から遠ざかった。

夕暮れに僕は広い国道の真ん中に立っていた。もうどうなってもいいと思っていた。今となってはなんでも一緒さ。僕はポケットからハンカチ包みを引っ張り出して、食べようと決心した。もう、自分を引き止める力は何もなかったのだ。そしてハンカチの結び目を解きに掛かった時、僕の後ろで耳に突き刺さるような警笛が聞こえた。

振り返ると、一台の乗用車が向かって来た。慌てて包みをポケットに押し込むと、思い切り手を大きく振った。自動車を止らせようとしたのだ。すると自動車は思った通りに僕の近くで停車したが、運転台にはなんとドイツ兵が一人乗っていたのだ。

「しまった・・・!」

自分の気持ちを落ち着かせながら自動車に近づいた。自分でも不思議に思えたほど、もう恐怖を感じはしなかった。

「私はブダベストの水運会社の水夫です。」

と言いながら彼に水夫の証明書を示した。

「ブダベストまで行きたいのです。乗せてくれませんか?」

すると彼は僕に乗れと手で合図した。運転台の横に腰掛けながらしばらくは飢えを忘れたが、間もなく再び胃は激しく引きつり始めた。僕は必死にそれに耐えた。飢えていると兵士が気付いてはならない。少しでも怪しまれたら万事休すだ。そして眠りに落ちないようにと、全身の力を振り絞った。

やっとブダベストに着いた時にはもう夜が白みはじめていた。市の中心街で降ろしてくれと頼んだ。運転手は車を止め、彼に礼を言って家路に向かった。でも通りの真ん中でパンを引っ張り出すのは恥ずかしかった。なぜかわからないが、同じ食べていても、飢えた人間はそうでない人間より人の目に付きやすいような気がしたのだ。

ポケットのパン切れを上から押えながら心の中でラビに感謝した。結局は彼のお陰で自分は助かったのだ。もしこの一切れのパンを持っていなかったら、どんな事をしでかしたか知れない....。

家の近くで、僕は巡察兵に呼び止められた。僕は一気に血が顔に上って来るのを感じた。吃らないようにしっかり歯を食いしばった。

「身分証明書を見せろ!」

と、体の大きい下士官が僕に命令した。

水夫の証明書を出して、彼の前に差し出しながら言った。

「マトローズ(ハンガリー語で水夫)です。」

下士官はドイツ語の証明書をぱらぱらめくってから、他の巡察兵に向かって言った。

「なんだ、こりゃドイツ人じゃないか。」

余計な事を彼にしゃべらなかったのは幸いだった。どうもドイツ人と勘違いしたらしい。僕はさっとドイツ式の敬礼をして急いでその場を立ち去った。

そうしてやっと家に辿り着いた時、僕はもう妻の質問に答える元気もなかった。

長椅子に崩れ落ちるように横になったが眠れもしない。料理の匂いが鼻をくすぐる。そしてあのユダヤ人のラビからもらったパンを思い出して、ポケットからハンカチの包みを引っ張り出し、ほほえみながら包みを解いた。

「あっ・・・・・!
これが僕を救ったんだよ・・・。」

「その汚らしいハンカチが?中に何が入っているの?」

「一切れのパンさ。」

突然、部屋中が僕と一緒にクルクルと回りはじめた。

そして僕の手の中のハンカチからポロリと床に落ちた一片以外には、もう何にも僕の目に入らなかった。

「・・・・ありがとう、ラビ。」

それは一切れのパンではなく、一切れの木切れだった。
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by ck-photo | 2004-11-04 04:33 | 日曜の哲学カフェ
テヘランの死と強制収容所でのある若い一人の女性の死
「テヘランの死」

一人の金持ちのペルシャ人は召し使いと彼の家の庭を散歩していた。すると従者は死の使者に出逢って脅かされたと悲嘆しはじめた。そして召し使いは主人に頼んだ。

「足の速い馬を一頭いただけませんか?大急ぎでテヘランに逃げたいのです」

主人は召し使いの言うとおりに馬を与え、召し使いは夕方までにテヘランに着くように急いで馬を走らせて行った。そして召し使いが出かけたあとで、今度は主人が死の使者に出逢ったので、主人は尋ねた。

「どうしてお前は私の召し使いを脅かしたのだ?」

死の使者は言った。

「私は何もしていない。ただ、彼にここで逢ったのでびっくりしたのだ。なぜなら私は今晩テヘランで彼に逢うはずだったのだから・・・。」



「強制収容所でのある若い一人の女性の死」

この若い女性は自分が近いうちに死ぬであろうことを知っていた。それにも拘わらず、私と語った時、彼女は快活であった。

「私をこんなひどい目に遭わしてくれた運命に私は感謝していますわ。」

と言葉通りに彼女は私に言った。

「なぜかと言いますと、以前のブルジョア的生活で私は甘やかされていましたし、本当に真剣に精神的な望みを追ってはいなかったからですの。」

その最後の日に彼女は全く内面の世界へと向いていた。

 (V.Eフランクル著「夜と霧」参照)
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by ck-photo | 2004-11-01 04:21 | 日曜の哲学カフェ