カテゴリ:日曜の哲学カフェ( 16 )
死海世界視界
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世の中も人生も
かすみの向こうくらいが
シアワセかもね。

照らし出されたライトのした
毛穴がビシーッと見えるよりも
今世紀最大の美女に見えるような
薄明かりがよいがごとく。
ふふふっ。
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by ck-photo | 2008-01-18 03:58 | 日曜の哲学カフェ
答えのない問い
死と生。

一昨日の9月6日に
とても好きだったパヴァロッティが亡くなって、
しばらく脇に置いておいたことがまた戻って来た。

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机の上で眠っているぷーたんを見ていた。
こんなに小さな身体で一生懸命生きている。
毎日毎日、力一杯遊んで、食べて、眠る。
そっと触れた身体から
小さな心臓がトキトキしている。
こんな純粋な命も
ほんの15年もすればその終を迎える。
そう思ったら愛おしくて可哀相で涙が溢れた。

ぷーたんは現世ではなぜかしら猫だ。
そして彼女は猫としての一生を過ごし、
猫としての現世を終える。

命あるものの死はその生を授かったと同時にはじまる。
「死は、生に属する、生誕がそうであるように。
歩行とは、足を上げることであると同時に、足を下げることでもある。」
とタゴールが言うように。
「死は人生の終末ではない
生涯の完成である。」
とM・ルターが言うように。


しかし肉体の死は起きてもSoulの死はない。
ぷーたんのSoulはその肉体の死後、
次のステージに向かう。
そう思ったら楽になった。

つまり、肉体の死によって起こる
その人を失ったという寂しさも悲観も、
それらはわたし自身の個人的な感情でしかない。
その人自身の問題として個人が迎える肉体の死
というイベントとはまったく関係がない。

では、人はこの世に生まれるべきか、
それともSoulのままであちらの世界にとどまるべきか。

人としての生まれて来たことへの意味、
それを意味付けようとすればいくらでも探し出せる。
しかしもっとユニバーサルな根本的な、
なぜ人というものがこの世に生まれて来なければならないのか、
そのロジカルな理由はわからない。

例え人の類いが滅びても、
地球にとっても宇宙にとっても、
また人類にとっても別に大したことではない。
すでにとおの昔に絶えた生き物たちと同じように、
かつて存在した生物の一種になるだけ。

ユダヤの論議の中でも
人は生まれるべきか否かが問われて来た。
ベイト・シャマイ派は生まれてこないほうがよいと説き、
ベイト・ヒレル派は生まれて来たほうがよいと説いた。
2年半の論議の末の両派の結論は、
Soulのままとして残り、人としては生まれてこないほうがよいというものだ。
(Tractate Eruvin/ Talmud)

おそらくわたし個人としては、
一生、その答えは見つからないかもしれない。
ひょっとしたら自分の死の間際、
またはあちらの世界に行ってから
その答えを思い出すのかもしれない。
そうであって欲しいと願う。


*このことについてのコメントには返信できそうにないので、
ブログをお持ちの方でご意見がある方はTBでお願いします。
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by ck-photo | 2007-09-11 08:35 | 日曜の哲学カフェ
「私小説 from left to right」
先週にご意見をたくさんいただいたアンケート「縦書き?横書き?」ですが、
予想にかなり反して「縦派」が圧倒的だということが非常におもしろかったです。
たくさんのご意見、どうもありがとうございました。

私個人としては、コンピュータや外国の本などですっかり横に慣れてしまったので、最近の日本語の本でも横でもほとんど違和感はありません。と言いつつも、日本文学と呼べるようなもの、たとえば漱石やら宮尾登美子を横組みのハードカバーで読んだらどうなるか、まあ、それはそれでまたおもしろいかも。「我輩は猫である」や森鴎外の「舞姫」あたりは、横組みの雰囲気もあるような気もしますし。

カズオ・イシグロというイギリスの作家がいますが、彼の書く英語の文章がとても情緒的で好きでした。英語なのに日本の心があると言うか、そんな雰囲気。「日の名残り」など、映画もよかった。それで、これは一度日本語でも読んでみたいと思って訳本を買ってみましたが、おもしろいことに、訳された日本語には彼の言葉の美しさが表現されていなくて、とてもがっかりしたことがあります。

もうひとつ、おもしろいなあと思ったのは、リービ英雄という米国の作家の文章。彼の書く日本語なのですが、ちょっとした表現が「ああ、英語の感覚、英語の考え方が日本語に変換された表現だなあ」と思うことがよくあります。日本語で書きつつも、その底で考えているのはやはり英語なんだなあと思えました。これは私にもよくあります(といっても、はるかにおぼつかない日本語ですが)。
まあ、本とは、文章とは、文学とは、おもしろいものですね。


と、話がちょっとずれてきましたが、横組みでも、それを忘れてしまうほどおもしろい小説があるそうです。

私小説 from left to right

460ページと長いですが。
(残念ながら私はまだ読んでいませんが、読んでみたいと思っています。)

レヴュー:「美苗」は12歳で渡米し滞在20年目を迎えた大学院生。アメリカにとけこめず、漱石や一葉など日本近代文学を読み耽りつ育ったが、現代の日本にも違和感を覚え帰国を躊躇い続けてきた。Toreturn or not to return.雪のある日、ニューヨークの片隅で生きる彫刻家の姉と、英語・日本語まじりの長電話が始まる。異国に生きる姉妹の孤独を浮き彫りにする、本邦初の横書きbilingual長編小説。野間文芸新人賞受賞。


と、本についての話でした。
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by ck-photo | 2006-08-01 16:29 | 日曜の哲学カフェ
フィルターをはずそう

ふと気がついて、書き留めておきたいこと。


心の中にはいろいろなフィルターがある。人は多かれ少なかれ、いつもそのフィルターを通して物事を見ている。だからそのもの、こと、ひと、をそのままありのままで受け入れているとは限らない。というか、ほとんどそれは無理に等しい。

エルサレムの街角の写真を撮ってきて、ここしばらく、「とんでもなく代わり映えしない」自分の写真に飽きてきた。ここに住むことによって得た情報から、私の中で「中東のエルサレム」というフィルターがすっかり作られてしまったから。マハネ・イェフダの市場は「泥臭い」というフィルター。旧市街は「ほぼアラブ色」というフィルター。だけど、雑誌やらで見るフランスのパリは「おしゃれ」だというフィルターなども、実際に「パリ=おしゃれ」かどうかを自分の経験として知らないのにもかかわらず、作られてしまう。そして仮にパリがおしゃれな町であったとしても、そのフィルターを作ることは避けたい。

そんな心にセットされたいくつものフィルターによって、すっかり見落としてしまうたくさんのこと。これらのフィルターをはずせば、同じエルサレムの「泥臭い」市場でも、いくらでも新しいことを探すことはできる。フィルターがあったから見えなかったもの、忘れていたもの、確信していたもの、ひねくれていたもの。そんな心のフィルターをひとつずつ、はずしていこう。フィルターを通して見ていたものが、意外な新しい形となって見えてくるから。人間関係もしかり。

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窓のプラスチック製の日よけのあいだからこぼれて来た光のボール。ああ、おもしろいな~っと思った。
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by ck-photo | 2006-05-22 01:18 | 日曜の哲学カフェ
Think Good!

The old LUBAVITCHER Rebbe used to say......

" THINK GOOD AND IT WILL BE GOOD."




ルバヴィッチというユダヤの一派の偉いラビの言葉。

「正しく良く考えれば、うまくゆく」


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そうかもね。
ポジティヴな結果はポジティヴな思考から生まれる。
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by ck-photo | 2006-05-08 10:02 | 日曜の哲学カフェ
↑と→の関係
さてと、たまにはまじめな話でもしてみようかな。

先日、「とりあえず伝達事項のみ」と、珍しく実家の父からの短いメールが来た。心臓の手術を終えてまたすぐに仕事に取り掛かっているとのことで、マルティン・ブーバーの古典「我と汝」に惹かれるとのこと。

「しかし、ブーバーの思想はユダヤではなく、でもキリスト教ではない。宗教の根源にかかわる思想であろう。ヴァルター・ベンヤミンの暴力批判論もおもしろい。現在のユダヤ人はこういった思想を忘れているのではないでしょうか」

「いいえ、お父さん、ブーバーの思想の元々はハシディズムですから、ユダヤ思想が彼の思想の元ではないですか?なので彼の思想が宗教の根源であってもおかしくはないでしょうね。宗教の根源や暴力批判論を忘れているのがユダヤでしょうか?そうは思いませんよ」

そう返信したら、それきり返事が来なかった。あらら、またやってしまったか・・・。どうも父は難しい年頃のようで、母に言わせると、ちょっとした私の言葉にがつーんっと傷つくようだ。父に対する愛情が欠けているわけではないのにね。

ユダヤの正統派神学や哲学ではブーバーは取立てて注目されてもいないので、「我と汝」はきちんと目を通していない。信仰について書かれていることぐらいは知っている程度。私は寺という場所に生まれた瞬間から宗教の環境で育ち、宗教がいつもそこにあった。それでも宗教って、信仰ってなんなのかなあと問い詰めれば、これといった明確な答えを見出せていないように思うし、ひょっとしたら一生かかって見つけられるか見つけられないかの課題のような気もする。信仰ってなんだろうかなあ。

その信じるものが神であれ仏であれ、いかなる時にでも人を正しく導いてくれるものが宗教なんじゃないかなあと漠然と思ったりする。疲れて力尽きそうな時に、道に迷いそうな時に、絶えられないような悲しみの時に、天にものばるようにうれしく輝いた時に、いつでもそばにいてくれるそんな存在なんじゃないかなあとも。信仰という、何かを信じるということは人を強くするんじゃないかなあ。信じるということによって、また立ち上がってゆけるんじゃないかなあ。そして神↑と↓自己、それを通して自己←→他者とへ、←↑→、人と人をつなぐものではないかとも。先日NYに戻ったI君の言葉、「自分のためだけではなく友のために祈る」のように。神↑↓自己の間に信頼と愛が生まれ、自己←→他者の間にも信頼と愛が生まれる。

なんてことがブーバーの本に書かれているかどうかは知らないけれど、父がおもしろいというのなら、一度「我と汝」をきちんと読んでみようか。お父さん、話はそれからですね・・・って、父がこのブログを読んでるはずもないですが。私と父、まずは、父↑↓娘の関係もさることながら、汝と我、父←→娘の関係にもう少し力を入れたほうがいいかもね。
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by ck-photo | 2006-03-20 22:22 | 日曜の哲学カフェ
祈り
CK 「自分のために祈るのって難しい」

I君 「あの友が幸せであるように
    あの友に子供が授かるように
    あの友が悲しまないように
    あの友が人生の伴侶と出会えるように
    あの友が健康であり続けるように
    あの友が苦しまないように
    あの友にすべてが与えられるように
    あの友が傷つかないように
    
    心から友のために祈れば 
    君の祈りも神に届くから    

    だから友のために祈ってごらん 
    神は君のことも一緒に面倒を見てくれるよ」

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by ck-photo | 2006-03-10 19:40 | 日曜の哲学カフェ
「自らの舌と口を守る者は、自らの魂を危険から守る」
エルサレムには金曜の日没から土曜の夜、明るく輝く星が肉眼で3つ見えるまでの24時間とちょっとの休息日がある。ユダヤの世界では安息日(シャバット)と呼ばれているその日。

街の商店もレストランも企業も、そして公共の交通機関はすべてお休み。道行くのは歩いている人たち。車もあまり走っていないし、近所からも大きな音楽なども聞こえてこない。聞こえてくるのは家族が集うの食卓の音と、その温かいにおい。やはり「幸せ」って何よりもすてきだと思う。

私は一週間の6日間を自宅、または企業のコンピュータの前でコツコツした孤独な作業をしながら過ごす。仕事だからそれは仕方がないけど、そろそろ一日ぐらいはコンピュータも浮世も関係のない静かな世界ですごしたいと思っていると、金曜がやってくる。これはありがたい。休みには、コンピュータを離れて本を読む。できるだけ、その時の自分の心の状態にピンと来るものを読む。

イカンセン、他称・宗教オタクの私(笑)は、そのご希望にそえるようにと、昨日はそれらしい本を何冊か読んでみた。と、いうのも、久しぶりに訪ねてみたあのブログ、そのブログ、あっちのブログ、妬みによる中傷や、その人に成りすましてよそ様に嫌がらせをしたり、色々と相次いでるらしく、コメントを閉められたり、しばらくお休みすることになったり、真っ向から公開対決している姿もあった。ざっと4、5件ほども。去年の暮れからの似たような個人的な出来事からも、それは人事ではなかった。

以前、旧ブログで何度か紹介したラビ・ホフェツ・ハイムというユダヤの賢者の教えを書いた本を、休みの間に久しぶりに読み返してみた。相変わらず、濃い~い核心的な精神世界がそこにある。その濃い~い本にも引用されているのが、ヘブライ語で「ミシュレイ」という旧約聖書の「箴言(しんげん)」の言葉。箴言はダヴィデ王の息子ソロモンの言葉であるという見方もあり、そうすると3000年ほど前の話になるけど、人の本質はどうも時間と共に変化・向上するものではないらしい。


ミシュレイ(箴言)から引用:(順不同)
興味のある方はこちらの本もどうぞ:Malbim on Mishley(英語とヘブライ語)


「愚かなる者よ、いつまで愚かであることに愛着し、智慧をあざ笑い続けるのだ?いつまで知るということを拒むのだ」


「智慧を得なさい、分別を得なさい。智慧を捨ててはならない、智慧はあなたを守るだろう。智慧を得ることに勝ることはない。できるならば、分別も得なさい。智慧を愛しなさい、それはあなたに誉れをもたらすだろう」


「私(神)はあなたに智慧と、正しい生き方を教えた。歩くうえで、あなたは何にもたじろがせず、走ってもつまずきはしない。これまでに学んだことを忘れてはならない。それはあなたの命であり、それを守らなければならない」


「歪んだ者の道をゆくな。歪んだ者の行いをまねるな。それらを避け、通り過ぎなさい。歪んだ者は悪事を行わずには眠れず、誰かを傷つけなければ眠れない」


「本当ではないことを決して話してはならない」


「もしあなたが自分の口から出た言葉に捕らわれたり罠にかかったならば、急いであなたを放すようにその者に告げなさい。罠にかかった鳥やシカのように、あなたは急いでそこから逃げなさい」



ソロモンの格言集:

「賢き者は智慧を蓄え、愚かな者の口は今にも破滅するのである」


「憎しみを隠す者の唇には嘘があり、中傷をするのは愚かな者である」


「他者について話すことは愚かであり、智慧のある者は沈黙する」


「噂話(中傷)をする者は秘密をもらし、誠実な者は事を秘めておく」


「愚かな者は自分の尺度が正しいとし、智慧のある者は助言に耳を傾ける」


「嘘の命は短く、真実は永遠に生き続ける」


「愚かな者は罪を分かち合い、正しき者は神のよき意をわかち合う」


「賢き者の舌は智慧を語り、愚かな者の口は無知を語る」


「賢き者が愚かな者と論ずるとき、愚かな者は怒り、嘲笑い、満足することはない」


「癒しの舌は命の樹となり、よこしまな舌は精神を傷つける」


「不忠な者はいさかいを植え付け、陰口は友を引き裂く」


「自らの舌と口を守る者は、自らの魂を危険から守る」



* リンクは都合により外しました。
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by ck-photo | 2006-02-19 03:21 | 日曜の哲学カフェ
あなたへの言葉
エキサイトの旧ブログを停止してから、はてなというところでしばらくブログを書いていました。そちらのブログはとある理由から現在は非公開にしておいてありますが、そこで以前話したことを少しこちらでも話します。


「人生とは、起きた事実は10%であり、残りの90%は自分の受け止め方である」 (ラビ ヤコブ・ウェインバーグ)


思い出せるときにはなるべく思い出すようにしている言葉です。

先月だったかに、とあるところで生まれて初めて「宗教オタク」と呼ばれるに至りました。はっきりいって無茶苦茶ショックでした。オタク・・・、がーん・・・。しかも「宗教オタク」って、うわー、キツー。すごい怪しそうな響きやなあ。

意外や意外、ワタクシ、意外と繊細なものでして、そう言われるに至った背景から、それからしばらくはそのことが心に残ってしまいました。どうしてもそれを否定的に受け止めてしまったので、なかなか抜け出せなかったのです。でも、しばらく自分を見つめているうちに、「オタク」と呼ばれるのは決してわるいことでもないのでは?と。中途半端なオタクはいやですが、オタク=何かについて知識がある、ならば、ひょっとしてわるくない?と。すると、不思議なもので、同じ「宗教オタク」という言葉でも、全然痛くも痒くもない。現金なもので、その反対に、いいやん、それ?と、よい響きにさえも思えてきた。

生きてゆく上では色々なことが起きます。常にうれしいことばかりではなく、不条理なことや、悲しい出来事もたくさん起こります。しかし、それをどう理解し受け止めるかは自分次第ではないのか。何か予期せぬことが起こった時に、それを否定的に受け止める選択をして嘆いていると、否定的な思考パターンから逃れにくくなってしまう。しかし、そうではなくそこから何かを学びポジティヴに展開して行くのもまた自己の選択であると。

コップに半分入った水。「たった半分しかない」と嘆くのか、「まだ半分もあるじゃないか」と感謝するのか。「コップに半分水が入っている」と言うことだけが事実であって、そこからの展開は自己の責任でしかない。オタクと呼ばれたことが事実であって、そこからの展開は私の選択。知らなくてもよかった人の暗い面を知ったけれど、その代わりに人の美しさに触れることができた。そこに焦点を当てていくほうがいいのではないかと。

人生での出来事への選択、ポジティヴにいこう~。

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by ck-photo | 2006-02-14 02:05 | 日曜の哲学カフェ
明けない夜はない
あれ以来「書けない」のはどうしてなのか。まずはそこから書いていこう。そうすることできっと少しずつ書けるようになると思うから。

2ヵ月ほど前のことだった。それまで一年以上も信じてきた方とイザコザがあった。イマサラ、その人がどうこうと言うつもりはない。それよりも、人を見る目のない自分に、当然、うんざりした。でも、それもいい勉強になったとポジティヴに受け止めた。世の中には本当に色々な人がいるもんだと、それも勉強になった。インターネットの暗い穴も知ることができて、それもまたまたいい勉強になった。しかし、いくらポジティヴな私でも、それから少しずつ時間が過ぎると共に、なぜかしらどんどんと、その一件が心に響きはじめた。肝心の「書く」ということについては、どこがいい勉強になったのかがわからない。その反対に、「書けない」という状態から、今も抜け出せずにいる。

それじゃあ、「書けない」という前に、一体何を「書きたい」のかと考えたら、正直なところそれが何なのかはよくわからない。これまでにも、それほど大したことを書いてきたわけでもないから、前のようなことを書きたいというわけでもない。ただ、自分らしく、自分の言葉で以前のように書きたいと思う。

しかし、先日、私が尊敬しているたくさんの方の中のお一人、その彼女もブログで書かれていたのだけど、ここに自分のブログが存在すると言うだけで、それが悪用され他人を傷つけることに利用されることすらあるということも、心の中に引っかかっている。私の場合、日本では馴染みのない中東のとある国とその宗教などを書いてきて、そのことが自分をも含めたたくさんの関係者の方々、またはその国や宗教のイメージそのものを傷つける道具とされたことも、どうも私の夜が明けない理由のひとつらしい。そんなことを思うと、何を書いていいのかわからず、また、「書けない」。書きたくても、何をどう書いていいのかわからない。

もちろん、そんなことばかりが起こるわけでも、そんな人たちばかりがいるわけでもないのは、「頭では」よくわかっている。一晩寝て、これらのことがすっきりできればそんなうれしいことはない。それを願わないわけがない。世の中にはたくさん、ものを見極めることができる方たちもいる。噂話ばかり食べて生きている人も、それはその人の人生なのだから、私には関係がない。

だけど、「心」というのは意外と厄介なもので、あれ以来、なぜか自由に思ったことを書くということが、とても難しく感じてしまった。心は一度トラウマになると、なかなか簡単にその事柄を忘れてくれない。心には「書けない」ということを忘れてもらって、はやく「書ける」ということを思い出してほしいのですが・・・。

時々読んでいるユダヤ哲学の研究家の内田樹さんのブログは、なかなかおもしろい。そうだよなあ~と思うことがいっぱい詰まっている。その中の「原理主義と機能主義」という記事にこんな言葉があった。


私は人の判断や主張が「正しいか正しくないか」ということにはあまり(ぜんぜん)興味がない。私が関心を寄せるのはそのソリューションが「機能的」かどうかだけである。



そして今日のブログのプライバシーの話もおもしろかった。彼のブログを読んでいたら、なんとなく、なぜだか、すこし、夜明けに一歩だけ、近づいたような気がした。


追記:これだけ書けたら、書けるか?(笑) いや、まだまだ・・・。
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by ck-photo | 2006-02-08 23:37 | 日曜の哲学カフェ