散らばった羽毛のごとく
さてと。今週はバタバタしておりまして、ニューヨーク時代にお世話になったというか、お世話させられたというか、勝手に「愛する我が叔父」と呼んでいるユダヤのおじ様がエルサレムを訪問。なかなかおもしろい一週間でした。

そこで、彼と話していて思い出したユダヤの話をひとつ。

ーーーーーーーーーー

男はいつものように、人の噂話や陰口を叩いていました。しかしある時、とあるきっかけで、男は一人の人についてまったく思い違いしていたことに気が付いた。

そこで男は白いひげのラビ(ユダヤ教の教師)を訪ねて行き、その人に今まで言ったことについて謝りたいが、一体どうしたらよいかと尋ねました。

ラビは言いました。

「この羽毛入りの枕を持って市場へ行きましょう。」

男は何がなんだかわからずに、でも言われるままに枕を持ってラビと市場へ行きました。

男はラビに尋ねます。

「さて、ラビ、市場に着きましたが、それと私の質問とどう関係があるのですか。」

ラビは男に言います。

「ではここで、この枕を破って中の羽毛を全部取り出してみなさい。」

男は言われるままに枕の中身を取り出しました。すると瞬く間に羽毛は風に乗ってあたり一面に散らばり、あちらこちらへ飛んで行ってしまいました。

ラビは男に言います。

「では今度はこの羽毛をすべて元のように集めてごらんなさい。」

男は答えます。

「ラビよ、それは絶対に無理です。もう探しようがないくらいに、あっちこっちに散らばってしまいました。」

ラビは男に言います。

「その通り。そしてそれはあなたのしたことと同じではありませんか。散らばった羽毛も、もう発してしまった言葉も、いくら謝っても元に戻すことはできない。あなたは言葉を発する前によく考えるべきでした。」

男は自分のした事の重大さに頭をうなだれました。


ーーーーーーー

ユダヤの教えでは、例えそれが真実だったり、または良い噂話であっても、「人の噂話をすること」や「他人についてあれこれ話すこと」は非常に避けなければならない事としています。タルムードと呼ばれる経典では、人前で他人を罵ったりおとしめたりと、辱めることはその人を殺すのと同じに値すると説かれています。人前で他人に精神的な苦しみを与えることはそれほど大変な過ちであり、人を殺したあとでいくら反省してもその人は生き返りはしません。元に戻らぬ散らばった羽毛と同じように。言葉の持つ力を知らなければなりません。

旧・新約聖書では「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」と書かれています。つまり、自分にされて嫌なことは、人にはしてはいけないということ。こう言われれば「そんなことは当たり前じゃない」と思っていても、ついつい自分かわいさに忘れてしまいがちなことです。何事でも行動するにあたって、まず自分がその人の立場に置かれた時のことを思い描いてみる。すると一つ一つの行い、言葉、はおのずから違ってくるのではないでしょうか。

そして、「ごめんなさい」と謝ること、これは何度口から出ようが、言えばよいというものでもない。過ちを犯したときに、その過ちに気付き、本心から「同じ過ちを二度と繰り返さない」と思えばこそ、そこではじめて「ごめんなさい」と言えると。そうしてこそ相手もその「ごめんなさい」を受け入れてくれるのだろうと思います。
[PR]
by ck-photo | 2004-10-22 21:25 | 日曜の哲学カフェ


<< 塩の玉 死海のほとり >>