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知られざる1945年の脱走劇
ホロコースト書きついでに、こんなお話しをしましょうか。

私は年に数ヶ月ほどヨーロッパへ出掛ける事があります。そして時間とお金が許せばニューヨークのユダヤの街へも出かけて行きます。これらの旅は観光ではなくて、イディッシュ語の文化と、そして現代で失われたものを探しに行くのですが、そこで出逢う人たちの多くはホロコーストと関係のある人たちです。ある人は命からがら収容所を脱出した人だったり、運良くホロコースト前夜にヨーロッパから逃げ出した人だったり、または不運にもおじいさんがナチに連れ去られて二度とは帰ってこなかったりと。そういう人々の心には、何か失われたものがあって。それはなかなか言葉で現しにくいものですが。

ヨシュアという80歳を過ぎたユダヤ人の彼。ヨーロッパのある国で今は一人で老人ホームで海を見つめながら静かに、でもとても明るく過ごしています。彼はその当時19歳の若者で町では床屋をしていました。そして、徐々にナチの影が近づいて来て、ヨシュアを含めた町のユダヤの男性は皆、ナチの手によって収容所へと連れ去られて行きました。ヨシュアの着いた所は絶滅収容所*(下記参照)で、その名前どおり人々を絶滅させる事が目的のキャンプでした。

ある時、いつものように気まぐれのナチの親衛隊がやって来て、ヨシュアと他の人たちを宿舎の外で一列に並べました。彼の気まぐれゲームはその収容所では有名で、毎日のようにこのゲームは行われていました。囚人を並ばせて、銃をぶら下げて順番に誰かの名前を呼びます。そして返事をした者はそれっきり戻ってはきませんでした。親衛隊が名前を呼びました。それは最悪にもヨシュアの名前だったのです。ヨシュアは心臓が止まりそうになって、喉が詰まって声が出ません。そして彼にはドモリの癖がありました。焦れば焦るほど声になりません。でも返事をしなければ!でも返事をしてしまえば最後なのです。声にならずに目の前が真っ暗になって。すると、彼の隣に立っていた男がヨシュアにささやきました。

「君の名だよ。」

親衛隊はその声を聞き逃しませんでした。そして、空に銃声が一つ響いて。その日のゲームはそれで終わりました。ヨシュアはしっかりと閉じた目を開けました。そうです、撃たれたのは彼ではなく「君の名だよ」と言った隣の男でした。その一言が生死を分けてしまいました。その親衛隊には、それがヨシュアだろうが誰だろうが、一人囚人が減る事以外は関係なかったのです。

彼は運良く収容所では床屋という職に就くことができて、その恐ろしい絶滅収容所でなんと4年近くも生き延びる事が出来ました。そして1945年、終戦の10日前のこと。この収容所ではナチの命令で1200人いた囚人の全てを処理することが計画され、囚人たちは自分達が処理後に埋まるための穴を掘らされていました。ヨシュアもまた、穴を掘る手伝いをしていた最中のことです。囚人達はこれが逃げ出せる最後のチャンスと、あたりの様子を伺っていました。そして団結して一気に反乱を起こしフェンスをなぎ倒し、まわりに作られたぬかるんだ沼を渡り、ナチから発砲される弾丸の中を一斉に駆け抜けました。

ヨシュアも走って走って、走りました。そして1200人いた囚人のうち、最終的に脱出成功したのはたったの80人だけでした。

終戦後にヨシュアは生まれ育った町へ戻り、家族を待ちましたが、誰も戻ってはきませんでした。そしてその後、戦犯の裁判に呼ばれ、あの親衛隊の気まぐれゲームの生き証人として証言をしました。それからヨシュアは現在の海の見える街へとやって来ました。彼の瞳はその海のように蒼くて、子供のような笑顔がこぼれます。ヨシュアに尋ねました。「どうやってあなたはあの弾丸の中を助かったの?」と。彼は「あははははっ」と笑って、「ほら、見てごらん。僕はこんなにおチビだろう?当時は本当に栄養失調だったからね。小学生並みさ。弾丸はみんな頭も上をかすめて行ったよ。でももし普通に大きかったら、きっと弾丸は当たってたかもね。」といたずらっぽくウインクしました。

後日、彼と他の方々を交えて色んな話をしていくうちに、会話は「神」の存在について語られ始めたのですが、私にはヨシュアに「それでもあなたは神を信じるのか」とは尋ねる事はできませんでした。そして、彼はみんなに向かって静かに一言「そんな話はしたくない・・・」と。

来年の春、またヨシュアに会いに行こうと思います。
by ck-photo | 2004-10-18 21:23 | 戦争と平和


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