チクリと痛い現実
ブルガリアで建築を研究中のはやさんの「少年との再会、EU、街」を読んで。

エルサレムの街にはたくさんの路上生活をしている人たちがいる。エルサレムの庶民の台所、マハネ・イェフダ市場に行けば、必ずといっていいほど路上から手を差し伸べてくる中年の男性や女性がいる。時にはロシアから移住してきて身を崩してしまった若い人だったり、片足がなかったり。新市街のベーグル屋の前や、カフェの前にも、そんな人たちを日常的に目にする。

旧市街の傍などでも、同じようにしてベールで頭を覆ったアラブのおばちゃんが幼い子供をひざに乗せて、歩道にぺたりと座り込んでは手を差し伸べる。おばちゃんは毎日毎日、時には気だるそうに身体を横にして、日がな一日をその人通りの多い道に座って過ごしている。

クロアチアのあちこちの街角にも、酔っ払ったジプシーだったり、年老いて目が悪くなったおじいさんだったりと、いろいろな人が「小銭をくれ」といって手を差し伸べる。ジプシーの中には、妻や子供に強制的に物貰いをさせたり、その稼ぎが少ないと暴力を振るうこともある。そして意外とその人たちの家は、その稼ぎによってお金持ちだったりすることも。

どの街にいても、私に向かって伸びた日に焼けたおばちゃんや酔っ払い、ジプシーの子供の腕を見て、私はいつも一瞬躊躇する。小銭を探してポケットに手を入れるべきか、どうなのか。

このアラブのおばちゃんは、ここで物貰いをするほかに生きる道はないのかなあ?
この酔っ払いのジプシーに小銭を渡したら、また飲んじゃうんだろうなあ。
このおじさんはこれでピタの一枚でも買うのだろうか?
この人に本当に必要なのは路上でもらうお金なのだろうか?
この子はこれからの将来、どうするのだろう?

そんなことを思いながらも、以前は私も手を差し出す人たちには、1シェケルだったり10シェケル(200円ほど)だったり、なんなりと、ポケットのコインひとつを渡していた。たかが200円ほどを誰かに渡したからといって私が飢えることはない、そう思ったから。だけど、あまりにもたくさんの人たちが、そうして生きている。私のポケットの200円ではどうしようもないくらいにね。

そして、渡したそのお金はその人の使いたいように消えて当たり前で、路上で飲んだくれるのもまたその人の選んだ人生なのだから、でもそれにあえて加担することもないなあ、なんて、いろいろな思いが頭の中を巡りながら、いつのまにか私はすっかりポケットから小銭を取り出すのをやめてしまった。明確にその理由がなぜなのかはわからないけれど。

ただ、ポケットの中の小銭を渡すのも渡さないのも、いずれにしろどこか心がチクリと痛いなあということだけは変わらない。



ユダヤでは個人の収入の10%をツダカと呼ばれる布施をすることになっていて、路上で手を差し伸べる人たちや通りの角に置かれたツダカの箱に布施をしている人たちをよく見かける。こちらはエルサレムのツダカおばちゃんたち。


ツダカのおばちゃん。毎日ここに店開き。



このおばちゃんは、よっこしょーっと座り込んで、鞄の中から時計とおべんとう、なぜかトイレットペーパー、そして小銭をもらうプラスチックのカップを取り出した。

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by ck-photo | 2006-05-11 03:47 | 混沌の文化


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